Written by 宍戸竜二 オフィシャルサイト

宍戸竜二のこれまでのおはなし

宍戸竜二について

このページ開いていただきありがとうございます。
ここでは、私の生まれてからこれまでの、主な出来事についてを記しました。
改めて振り返ってみても、七転八倒ばかりだなと改めて思うところであります。
前後編と長々とになりますが、面白半分で読んでいただければ幸いです。

1972年 神奈川県の小田原という街で生まれる

物心ついた頃は陽気で明るく、家の中では家族を笑わせることを楽しみに過ごす。
学校でもとても陽気に過ごしていたなあと思い返す。

小学校では、学校一の天才画家三芳くんの画力を目の当たりし、青ざめながら、絵を描くなどということは突出した天才だけが行うもの。という鮮烈な思い込みを胸に抱き、自分の人生からお絵かきを排除する。

しかし大人になって絵を描く仕事に就くなどということは、この時の竜二には知るすべもなかった。

なんたって、当時図画の時間に遠近感を出すために描いた画用紙の中では、人物が宙に浮いていた。というショッキング的なアートを排出していた。
友達からは大爆笑の烙印をいただく。

当時すでに両親は離婚をしていて、父親は蒸発し行方不明。
母親はパチンコに明け暮れて、毎日を一人で過ごす。
(心の葛藤が生まれたのはこの辺りからか?)

中学生から高校社会人とバレーボールに明け暮れる

高身長を生かし(小学校卒業時165cm)バレーボールへと没頭する。
小学校の時の悪友と結成したコマンダー部隊。
卓球部入部を決意していたが、メンバーがこぞってバレー部に入部すると聞き、慌てて後に続く。
夜中に体育館に忍び込み勝手に練習をするくらい燃えていた。(そのあとこっぴどく怒られる)
しかしメンバー4人のうち2人が暴走族へと乱れる。
そのヤンキーと化したメンバーが喧嘩をするとすっ飛んで行って止めていた。
(怪我をされては困るから)

中学二年の時に、後輩からバレンタインデーのチョコをもじもじと差し出されるも、初のバレチョコに恥ずかしすぎて「じ、自分で食べてよ」と鬼畜な返答をし、女バレ後輩部員から総スカンを喰らう。
帰り道に遠くから「ししどのばーか」となじられる。誤解です泣
家が貧乏で二足めのシューズを買ってもらえず、先輩から100円でお古のシューズを譲り受ける。

工業高校機械化に進学し、引き続きバレー部へと心血をそそぐ。
身長も180cmを超え、アタッカーとして花開き、三年生が引退するとすぐにエースアタッカーの地位を得る。しかしここからが地獄。
先代のエースは神奈川県内でも有数のアタッカーで、その後任ということで期待されるも全く役に立たず毎日地獄のしごきを受ける。
しかしおかげで自分たちが主体の新チームでは全てが機能し、神奈川県生地区ではほとんどの大会を2〜3位と好成績。しかし県大会ベスト4の私立校には勝てずじまい(神奈川の高校バレーは全国トップレベルの強豪ぞろい)

バブル後期の煽りを受け、伝統的の優遇されていた上場企業への就職斡旋によりリコー株式会社入社。同時にリコーバレー部へ入社。
しかし、入社までも試練が…
入社試験を控えた直前に、彼女を送った後の帰宅途中、400ccオートバイでコンビニの入り口にバイクごと突っ込むという大事故を起こす。車の不注意だったが、足を挟まれ大怪我。バイクが滑って入り口の自動ドアを蹴破る瞬間がスローモーションでくる広げられる。
通常通りレジを打っていた店員が滑る来るバイクの気配に気がつくと、阿鼻叫喚で慌てふためく。容赦なく突っ込む真っ黒なGPZ400のバイク。ドアを蹴破り、肉まんケースを葬り、カーペンターズのBGMとともに、レジ周辺に肉まんが飛び散る。
初めての救急車は、過ぎ去る街の明かりを視界にとらえながら、サイレンドライブを味わう。
救急車に速さに驚く。

怪我のまま、高熱を出しながらフラフラで入社試験に松葉杖で向かう。足を椅子に乗せ面接、筆記試験はもはや朦朧として回答できず、タクシーで帰還。
(コネとはいえ、よくそれで受かったものだ。さすがバブル!)

無事に入社し、社会人バレーへと舵を切っていく。
同期にバイクレース好きがおり、ついて行ったのが最後、そこからズブズブとミニバイクレースにはまり、一年と経たずにリコー退社。
同期の仲間との寮生活を過ごしており、最高に楽しい毎日の中、辞めることが悲しくて悲しくてお別れ会で大号泣。周りも大号泣で華々しく背中を押してもらう。

オートバイレース生活スタート

一切の後悔もなく、毎日がバラ色。
心置きなくバイクへ没頭する。

ミニバイクの楽しさは麻薬的で、マシンを限界まで操作する快感は筆舌に尽くしがたい世界。格安の費用で、いくらでもサーキット走行が出来る世界の虜に。
主な舞台は神奈川県の中井サーキット、大井松田カートランド、千葉の新東京サーキット、京葉スピードパーク、茂原サーキットなど様々なコースで走りまくる。

ミニバイクでは飽き足らず、本コースを使用する125ccクラスにスイッチ。
舞台をミニバイクコースから筑波サーキットへと移す。
レース専用に作られた125ccの破壊力を目の当たりで実感し、しびれる。
予選すら通らない日々の中熱中するも、仕事との両立に悩む。
そう思うといてもたってもいられず辞める。
ちょうど雑誌で「僕らと働こう!マシンや設備を提供!」という広告を見て応募し千葉へ行く。

しかし、そこもまた地獄。
訪ね先のドアの間でいかがわしい看板を確認する。
〇〇会計事務所云々
あれ?と首をかしげる。
ドアを開けると親分が踏ん反り返って、歓迎される(ほとんどメンチ)
都内を自転車で回り新聞を売りまくるという仕事をやらされる。
「新聞取りませんか?」伝記の続きはこちら。

筑波サーキットへ練習走行へ行くと、その新聞入りませんか募集で同じ飯を食った先輩とまさかの再会!
その先輩が所属する御徒町にあるホンダ系のレーシングチームMOTOBUMに所属し、GP250ccクラスへとスイッチ。アマチュアレースでは最高峰のクラス。
そこでは仲間が大勢でき、レースを心から楽しむ。
メンテナンスの比率が大きいレースングマシンはおおよそ25分2回の走行でほぼ半分ほどマシンをばらしてパーツのチェックをする。
しかしその分凄まじいパワーを発揮する。

1998年より筑波選手権GP250ccクラスへ参戦を始める。
翌年1999年に同クラス年間ランキング3位を獲得し国際ライセンスへと昇格する。
2000年は筑波エリア選手権250ccに参戦し、全日本選手権参戦を目論むもライセンスや資金やメンタルの壁に憚られ、同年で一切の活動を終了する。実質の引退。
すべてのマシンや資材を売却し、イラストレーターを目指す。

イラストレーターになろう

絵には興味があったものの、イラストレーターって何?という状態。
当時の自分の絵への認識は、売れない貧乏のまま死んで、死んだらようやく有名になれる。程度。
しかしそのイラストレーターは絵で飯を食べ、社会的な職業として生業としていると知る。
「何それ!死ななくてもいいの!じゃやろー」と圧倒的な軽薄さで目指し始める。

もともと塗装業との掛け持ちでレース活動をしていた私は、イラストレーターになるために地元小田原に戻り塗装業を続けた。
イラスト作品は、高校生の頃に見た鈴木英人さんの絵に憧れていて、その技法を真似、技術を盗む。
英人さんのアシスタントになりたくて、アポもなしに作品を持って押しかける。
英人さんには会えなかったが、運よくマネージャーの方が話を聞いてくれた。
そこで衝撃の事実を知る。
「今はデジタルに移行したから、アシスタントは雇ってないんだよね〜」と。
無様に口を開け、まさかのプラン白紙に。しかし、そこでとても貴重なことを言っていただく。
「いずれにせよ、アシスタントをしてもイラストレーターにはなれないから、自分でモチーフを考えながら取り組んだほうがいいよ」と。
「は、はあ〜」と気力がゼロになった返事をすると事務所を後にした。

それからは開き直り、そんじょそこらの美大上がりの奴らでは、決してできないほどの熱量で取り組む。
手当たり次第あちこちに営業をかけ、手当たり次第アート系のイベントに出展する。
デザインフェスタやGEISAIなど。
直接の営業に至っては、とにかく猛烈な数アタックを仕掛ける。
特にメールでの営業は常軌を逸する。

とにかく頑張った。
「頑張るって簡単だよね。だって頑張ればいいだけなんだから」
という迷言を掲げ、イラスト業界に猪突猛進を仕掛けて続ける。

イベントで知り合ったNHKの制作の方に声をかけてもらい、無事にイラストレーターとしての初仕事をいただく。初めての仕事のギャラが100万円だったから、椅子から転げ落ちて不思議な舞を踊ったことを今でも走馬灯のように思い返す。

そのように圧倒的幸運と、ご縁に後押しされ、イラストレーターとしてのデビューを果たした。
その仕事は英語教材のジャケットのイラストとデザインを制作するもので、イラストだって素人なのに、デザインなんて…。しかし多大なるサポートをいただき、なんとか納品をする。
翌年同じ仕事をいただき、NHKさまには足を向けれません!
今でもそのディレクターの方にはいろいろと気にしていただいている。

骨折事件

しかし翌年のその仕事の納品間近で事件が起きた。
イラストレーターと塗装業を両立させようと、寝ないで仕事をする日々。
ペンタブレットのペンを持ちながら寝落ちすることを繰り返す。
ある真冬の凍える現場。
職人仲間のゆうたと塗装前の洗浄作業を行う。
屋根に高圧洗浄をかけ、滑る滑ると遊んでいたら本気で滑り屋根を滑空する。
そのまま屋根を飛び出し、足場のパイプをつかんだ拍子に体が真横になり、一階の屋根とはいえ、コンクリートの腰から落ちつ。
「グシャッ」という感触と共に、慌てて起き上がるも、足がいうことを聞かず、またガンダムが砲弾に沈むようにその場に横渡る。
だめだ完全にダメ。と仲間のゆうたに知らせる。
救急車が来て大騒ぎに。
そのまま病院へ直行し、私の塗装業としてのキャリアを終える。

運ばれた病院のやぶ診断に恐れおののき、レースの仲間から静岡のレースドクターのところへ行けとアドバイスされる。
手術当日に決断し、民間の救急車を手配するとそのまま静岡のくわはた整形外科へ移送される。
民間の救急車での静岡までの移動費用は30万円と後で聞く…。
幸い労災でなんとか懐を痛めることはなかったが、真っ二つに折れた太ももは、常軌を逸脱した痛み。
シーツの裾を噛む勢いで、高速道路を救急車はひた走った。

病院へ着くと、そこはパラダイスだった。
「くわはた整形外科のパラダイス」はこちらで

退院後、デザインフェスタで声をかけていただいていた画廊から個展の開催を依頼していただく。
二つ返事で準備をし、足を引きずりながら会場で日程をこなす。

「仕事どうしてるの?」と画廊担当さん。
「自分不器用すぎるくらい無職です」と高倉健(おれ)
「じゃあここで働きなよ!」と会場のギャラリーにかけ当てくれて無事に仕事が決まる。

貸し画廊での仕事が始める

ちょうど銀行の年間ポスターの仕事を引き受けたばかりだったが、イラストの仕事をしている私に興味を持ってくれたオーナーは、ギャラリーも暇だから、自分の仕事しながらでいいよと言っていただく(GOD!)
さらに半年もすると社員登用へと駒を進めていただく。
しかし企画展など目白押しでその企画運営には、社員の私が筆頭とならなければならない。
だが無知な私は、ほとんどを優秀なパートの方々のサポートを受けなんとかこなす日々。
次第に自分の仕事と、企画展の運営の間で心が揺れ出す。
イラストの仕事ではまだ食べていくことはできない程度の請負数だったが、「もうバンジージャンプや!」
と勇気百倍、シシパンマン!(あんぱんまん)「バンジーッ」と専業イラストレーターの道を歩みだす。

勇気は絶対に自分を裏切らないですよ。
それからは、なんとか徐々に案件も増えていき、一気に寝る暇もないようなイラストレーターとして活動をしていくのです。

どうですか?こんな感じで私のイラストレーターへの道は軌道に乗りました。

後半では、そこからのさらなる没落人生を大いに語ります。
人生そんな甘くないぜ。
結婚や離婚や仕事ゼロの日々。苦痛や苦悩の日々を、他人事と楽しんいただければ幸いです。
「ヒトの不幸は蜜の味」編へ!