Written by 宍戸竜二オフィシャルサイト

幸せという麻薬。苦しみから生まれた意味を考える

information

二つの幸せ


僕が考える幸せとは、大きく分けて2つある。と思っています。

・一つは、社会的な幸せ。
家族を持つとか、恋人を持つとか、仲間を持つとか、仕事を成功させるとか。
そこで生まれる甘美な幸せ。

自分が人生に求めるもの。
ということ。

・一つは、自分だけの心の幸せ。魂の。って言っても良いと思う。
自分の生き方に気がつくとか、自分が何のために生きるのか?何のためにこの命を使うのか?そこに様々な問いを使って気がついていく、様々な人生の不遇をきっかけに気がついていく。

自分の人生が自分に求めているもの。

この二つは切っても切れないし、どちらも大切なものだけど、ほとんどの人は、社会的な幸せが手に入ればこの人生は大成功。
という大きな勘違いをして、人生を狂わせている。

前者の幸せには決定的な欠点があるのです。

それは、決して一人では手に入れらないからです。

家族も、恋人も、仲間も、仕事も、そのすべての社会的な幸せは、誰かの協力がないと絶対に成立しないのです。

その対象の人が、自分の思うように振る舞ってくれたら幸せが手に入る。
この恐ろしさと難しさを忘れるたったひとつの要素が、社会的な幸せとは麻薬だということ。

家族で幸せ、恋人と幸せ、仕事で幸せ。
とろっとろに溶けそうな麻薬なのです。

その幸せを一度でも味わってしまったら、もしくは擬似的に、他人やドラマや映画や小説や、そんな中で甘くとろけそうな幸せが展開していれば、それはもう無性に欲しくてたまらなくなる。

それを手に入れるには、他人と協力しないといけないし、協力してもらわないといけない。そこで様々な葛藤が訪れる。

どうしてあいつはこういうふうにしてくれないんだ!

テレビでは、映画では、恋人はこんなふうに甘々な展開をしている。お前がこうしてくれなきゃ、あの甘々体験ができないじゃないか!

と憤り、しまいには、麻薬が切れた麻薬常習者のように、なりふり構わず手に入れようとする。

自分なんて捨ててもいい、言いなりでもいい、嫌なことでも何でもする!だからあの甘い幸せをくれよ!ともがく、苦しむ、そして倒れる。

そんな悲劇で世の中は埋め尽くされている。

じゃない?

その先にある圧倒的に多いのが
「何をしたいのかわからない」
という落とし穴。

そりゃそんな誰かの言いなりとか、社会の言いなりとか、トレンドの言いなりとか、誰かのマーケティングに踊らされている限り、自分が何をしたいのなんてわからなくて当然なのです。
もしあなたがこの人生で何をしたいのかわからない。と思っているのなら完全に社会的な完備な幸せという麻薬に侵されているということ。

社会的な幸せは、砂糖のように、甘く常習性をもたらす悪魔のような危険な幸せなのです。

とちょっと煽りすぎましたが、そうじゃないですか?

でもさ、そんなにそんなに幸せが欲しいの?

まあ自分だって、そんな幸せは欲しいと思うけど、でもでも、その順番があるのです。

人がこの世で一番大事なのは、後者の自分の人生が、自分に求めているもの。

これを達成するために、我々は生まれて生きてる。

では一体人生は何を求めているのか?

その答えに気がついていくこと。

そしてその答えはとんでもない高みをのぼる登山のようにそう簡単には見つからない。

そもそもその答えは、悶絶するような絶望とか、苦しみとか、失敗とか、そういう中にしか答えはないと僕は実感しています。

なのに前者の幸せの麻薬中毒になっている人は、その大切な絶望を悪いものとして、いらないものとして、排除し続けることに躍起。

しまいにゃ「神様仏様、宇宙にお願い!引き寄せ〜」なんて雨乞いをする始末。

引き寄せの法則が最悪に最悪なのは、目の前にある状況が、これではダメだ。と言っているところ。目の前にある物事こそが重要であるのに、何かがあれば、これがあれば、誰かがこうしてくれれば、と否定する。その物事は、あなたの一番大事なパートナーであるウニヒピリが用意してくれたもの。それをいらないとかダメとか言っている限り、強烈な自己批判を自分自身でしているということ。

なのですよね。

それに、誰にだって一つや二つくらい絶望なんて味わったことあるでしょ?

でもそれこそがあなたにとって最高の幸せの種なのです。

その種がどんな芽を出して、どんな実をつけるのか?
そこを考えることこそが、あなたの頭の、顕在意識の役目なのです。

過去に味わった誰かとの幸せなんて、まあまあどうでもいいことなのです。一刻も早くそんな麻薬を体から抜いたほうがいい。

どうしてあいつはこうしてくれないんだ?
などという、自分で答えも出るわけもない、自分でコントロールできるわけでもない、そんなくだらないことを考えるためにあなたのおつむはあるわけじゃないのです。

そして、そして!

自分の人生が自分に何を求めているのか?何を達成して欲しいと思っているのか?

苦しみの中に「えいやっ!」と頭を突っ込み、その中にあるキラキラのお宝を見つけたその瞬間。そこにはあなたにとって最高の喜びが待っています。

そしてそれは、他人など必要のない、あなた自身で手に入れた幸せなのです。
その喜びは、その喜びこそ常習性を持って、依存して良いのです。
何度も何度もその喜びが欲しい。
そう思って良いのです。

だって自分一人で、この頭を使えば手に入るのですから。

そして不思議なことに、そこに夢中になることで、社会的な幸せはやってくるのですよね。

後者の自分の魂の幸せは、自分の力で手に入り、
前者の社会的な幸せは、結果やってくるおまけみたいなもの。

前者の幸せが欲しい気持ちを手放して、自分の人生が何を求めているのかに気がつく喜びを見つける。すると結果社会的な幸せはやってくる。

社会的な幸せが欲しくて欲しくて、ぎゅぎゅーにつかんでるその姿は、昔の時代劇であったような、お代官様の目の前に「その子は私の子です」と言い張る二人の母親がいて、そして本当の母親だというのなら、その子の手を取り、自分の胸に収めよ。と命ずる。

二人の母親は、その子の手を両方から引っ張る。
子供は痛がり、それを見た本当の母親は手を離す。

偽の母親は手に入ったと大喜び。
その子がいればお金が手に入るとか、そんなだったよね?

そしてお代官様は「手を離したそのほうが真の母親だ」
と手を離した母親に子供を託す。

偽の母親は怒り狂う。

「本当の母親なら、苦しむ子供を見ていられるわけがない」
と突きつけその話はハッピーエンドへ。

こんな話だったよね?

こんなふうに、本当に大切な幸せなのなら、そのぎゅーぎゅーにつかんだ手を離してあげてほしい。本当のもう一人の自分である、ウニヒピリはぎゅーぎゅーに掴まれて、痛がっているのです。ウニヒピリはいつでも「幸せをもってこい!」なんて命令されるためにいるんじゃないのです。

ウニヒピリが喜ぶのは、あなたが自分の人生の謎を解くことに夢中になること。
何のために生まれてきたのだろう?

その答えは奇想天外な創造性あふれる自作自演のストーリーでいいのです。
そのストーリーを目の前の絶望を使って作り上げていくと、不思議と人生はV字に駆け上っていくのですから。

果報は寝て待て。

寝てる間に、自分の人生の秘密を解き明かそう。

無料相談のご案内はこちら


今の苦しみをお聞かせください。できる限りのアドバイスをさせていただきます。

宍戸竜二のメールマガジン


アートや心をテーマにしたメールマガジン。小さな喜びと、小さな笑を。 

100点以上のアート作品が揃います


あなただけのアート作品と出会える、宍戸竜二オフィシャルオンラインショップです。